熊野古道
彼方の時代をたどり、悠久の歴史に思いをはせる
神のこもる国として信じられた熊野の、那智・速玉・本宮の三大社をめざして、いにしえ人がたどった道、熊野古道。
広川町内に残る歴史の道、熊野古道の王子跡をたずねて…

津兼(井関)王子社跡
藤原定家は、建仁元年(1201)10月10日、湯浅を雨の中にたち、久米崎王子を遙拝し、ついで参拝した井関王子でようやく雨が止んだと日記に書いています。
藤原頼資の日記では、承元4年(1210)4月26日、久米崎王子についで白原王子に参拝しています。井関王子と白原王子は同じ王子社とも考えられます。
これより約100年前の天仁2年(1109)、藤原宗忠は「弘王子社」についで、白原王子社に参拝していますが、この王子は近年出現したものだと記しています。
江戸時代の『紀伊続風土記』には、井関王子社は村の北入口にあり、今は地名をとって津兼王子というと記しています。また近世初頭に熊野街道が西側に移ったことにより、旧井関橋を渡ってすぐの台地上に新しく津兼王子がつくられました。その新しい津兼王子神社は明治41年に津木八幡神社に合祀され、現在は跡形もありません。
この中世の王子社の跡地も近年の湯浅御坊道路広川インターの建設によって消滅しました。
河瀬王子社跡
藤原定家は『明月記』によると、建仁元年(1201)10月10日、井関王子についで「ツノセ王子」に参拝しています。また、藤原頼資の日記では、承元4年(1210)4月26日、白原王子についで「角瀬川」王子に参拝しています。江戸時代の『熊野道中記』などでも、「津の瀬王子」と書いています。このように、古い文献では「角瀬」あるいは「津の瀬」という王子社名ですが、江戸時代の村名が河瀬であったことから、「ごのせ王子」と呼ばれるようになったと考えられます。
『紀伊続風土記』では「川瀬王子社」とし、明治時代には川瀬王子神社となりましたが、明治41年に津木八幡神社に合祀され、跡地をとどめるだけとなりました。しかし、現在も巨石が横たわっており、王子社の古態を伝えているように思われます。また、この王子跡から鹿ケ瀬峠に向かう集落には、かつて旅籠や茶屋を営んでいた宿場の雰囲気が感じられます。
馬留王子社跡
この王子社を過ぎて南にしばらく行くと山道となり、熊野参詣道の難所、鹿ケ瀬峠があります。熊野御幸が盛んなころ、上皇や女院、貴族たちは、この峠を越えて熊野に参詣しました。しかし、御幸時代の王子社を克明に記録した藤原定家や藤原頼資の日記には、馬留王子の記載がなく、それよりも新しい王子社と考えられます。江戸時代に書かれた若山(和歌山市)から熊野までの道案内書、『熊野道中記』には、津の瀬王子の次に、沓掛王子、次に鹿ヶ瀬山が載せられており、この王子は沓掛王子と呼ばれていたことが知られます。ところが、『紀伊続風土記』では、この王子を沓掛王子というのは誤りだとして、馬留王子社と書いています。以降、この王子社は馬留王子社といわれ、明治時代には、馬留王子神社となりましたが、神社合祀で、津木八幡神社に合祀されました。
法華檀
峠の近くに法華寺跡があります。天暦3年(947)天台宗の僧、円善上人が熊野参詣の途次、この峠で客死し、そこに後年、法華壇がたてられ庵もつくられました。これが後、広に移って養源寺となりました。したがって養源寺は古くは鹿ケ瀬山法華寺と号したといいます。いまでも、月1回養源寺の関係の方が参詣されています。
鹿ケ瀬峠
河瀬王子社跡から頂上まで約4km、鹿ケ瀬峠越えは、熊野路の最大の難所の一つです。大峠頂上は広い敷地に茶屋・旅籠があり賑いを見せていました。昭和の初期までここに住まいをしていた玉屋もありました。道の西峰づたいに小城山があり、ここに鹿ケ瀬城跡があります。また、頂上手前数十メートル左脇道を入った所に広、養源寺の草創と伝えられる法華壇があります。ここに伝わる骸骨読経の伝説は「元享釈書」によって紹介されました。また、この峠を僧基法師「いほぬし」に次のように歌っています。
「 うかれけん 妻のゆかり
せの山の
名を尋ねてや 鹿も鳴らん 」
古道はこの先小峠を経て日高町の沓掛王子に続きます。