広村堤防
広川を守り続ける、まちの代表スポット
国の史跡である広村堤防。1946年(昭和21年)の昭和南海地震の際、津波から町を守った堤防は、いまもわたしたちの町を見守るシンボルであり、地元の人たちの散歩道にもなっています。稲むらの火の館で申し込めば、耐久社や濱口梧陵銅像とあわせて、語り部による案内付きで見学できます。
広村大防波堤の築造(広川町誌より抜粋)
安政元年(1854年)に起きた地震津波により、広村は大きな被害を受けました。田畑は土砂に覆われて耕作することもできず、漁夫も船と漁具を失い明日の生計を立てることができませんでした。住民は行く末を案じて移住したり、あるいは他村の親戚を頼って日一日と離散するばかりでした。
梧陵はこの有様を見て、切に被害民を救済する必要を感じ、家を失った者には住宅を建築し、漁夫のためには船と漁具とを買い与え、農夫には荒廃した田畑を改修するなど、我を忘れて救済に従事しました。安政2年正月から翌3年正月までに家屋50軒を新築し、貧困な者には無料で住まわせ、多少の資力がある者には10ヶ年の年賦で貸し与え、農民には農具を揃えて家に応じて分配し、商人には資本を貸し与えて自立を促しました。
これとともに、広村を永久に津波から守るため堅固な堤防を築くことを決心し、濱口吉衛門と協力して、紀州藩に自費による防波堤工事を上申しました。
広村の海岸には、昔から畠山氏が築いた石堤がありましたが、高さ1間半あまりで、大津波の時は潮水がこれを越えてしまっていました。そこで津波の潮の高さを考慮して、石垣の背後に更に高さ二間半、根幅11間、天幅4間、長さ500間(※1)の大防波堤の築造を計画しました。
そして間もなく許可が下りましたので、安政2年2月から工事に着手しました。
いつまでも救助米に頼っていることでは、被災者らの自立を妨げるため、この工事に雇用することで生産的に窮民を救済し、広村が安全地帯となるよう努力をさせました。村民の喜びは一方ならず、生計困難であった者もこれによって元気を取り戻し、離散を思い止まるようになったため、戸数もあまり減らずにすみました。そして、農繁期には工事を中止し、安政5年12月まで工事は続けられました。
当初築堤は延長500間で広川堤まで迂回する予定でしたが、諸般の事情から予定の計画に達することができず、370間に止められました。この工事の延べ人員は56,736人でその費用は銀94貫344匁(※2)を要したということです。また、防波堤の完成と同時に、土堤の外面の堤脚に松樹数百株と土堤の内面及び堤上にハゼ樹数百株を植え、防潮林を造成しました。ちなみにこの松樹は樹齢およそ20~30年のものを山から持ち帰って植えたもので、梧陵の注意により、元々生えていた方位に植えさせたので、1本も枯れることがなかったと伝えられています。
※1:実際の大きさは、延長652.3m、高さ3~3.4m、平均海水面上約4.5m、根幅17~17.4m、天幅2.5~3mとなっています。
※2:銀94貫344匁は金1572両になります。日本銀行貨幣博物館によると、江戸時代末期の大工の賃金で換算すると1両=約35万円ということなので、梧陵らはこの堤防に約5億円の巨額の私財を投じたことになります。
広村堤防横断図
北側から南向きに見た場合の横断図イメージです。海までの距離は埋め立て前のものです。
※横断図引用元:「稲むらの火」と史蹟広村堤防(平成15年3月発行)より