資料室 【濱口梧陵】
濱口梧陵は広村(現在の広川町)で分家濱口七右衛門の長男として生まれ、12歳の時に本家の養子となり、銚子での家業であるヤマサ醤油の事業を継ぎました。
安政元年(1854年)、梧陵が広村に帰郷していた時、突如大地震が発生し、紀伊半島一帯を大津波が襲いました。梧陵は、稲むら(稲束を積み重ねたもの)に火を放ち、この火を目印に村人を誘導して、安全な場所に避難させました。
しかし、津波により村には大きな爪あとが残り、この変わり果てた光景を目にした梧陵は、故郷の復興のために身を粉にして働き、被災者用の小屋の建設、農機具・漁業道具等の提供をはじめ、各方面において復旧作業にあたりました。また、津波から村を守るべく、長さ600m、高さ5mの防波堤の築造にも取り組み、後の津波による被害を最小限に抑えました。
梧陵は、他の分野においても優れた才能を発揮しました。教育面では、江戸時代末期に濱口東江、岩崎明岳とともに私塾を開設し、剣道や学業などの指導にあたりました。この私塾は後に「耐久社」と呼ばれ、変遷を経て現在の耐久中学校になっています。
明治4年(1871年)に梧陵は大久保利通の命を受けて駅逓頭に就任したのをはじめ、明治12年(1879年)には和歌山県議会初代議長に選任されました。議長辞任後は木国同友会を結成し、民主主義を広める活動を展開しました。
明治18年(1885年)梧陵の長年の願いであった欧米への視察途中、ニューヨークにて永眠しました。
濱口梧陵年譜
西暦(旧暦)(年号) | 年齢 (数え年) |
梧陵 名前 |
梧陵年譜 *マークは時代背景 |
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1820年(文政3年) | 1歳 | 七太 | 六月十五日 紀伊国広村に生まれる。幼名 七太 |
1821年(文政4年) | 2歳 | 正月十八日 実父七右衛門 没する | |
1823年(文政6年) | 4歳 | *勝海舟生まれる | |
1825年(文政8年) | 6歳 | *二月 外国船打払令 | |
1831年(天保2年) | 12歳 | 儀太 | 本家養子となり儀太と名乗る |
はじめて江戸を経て銚子に赴き家業に就く | |||
1834年(天保5年) | 15歳 | 儀太郎 | 元服し儀太郎と改める *福沢諭吉生まれる |
1837年(天保8年) | 18歳 | 祖父潅圃 没する *二月 大坂で大塩平八郎の乱 |
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1839年(天保10年) | 20歳 | 湯浅 池永右馬太郎の娘、まつと結婚する *蛮社の獄 |
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1841年(天保12年) | 22歳 | 三宅艮斎との出会い *三宅艮斎、銚子に開業 |
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1848年(嘉永元年) | 29歳 | 長女たき生まれる | |
1850年(嘉永3年) | 31歳 |
佐久間象山の門に出入りする |
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勝海舟との出会い | |||
1851年(嘉永4年) | 32歳 | 崇義団を起こす | |
1852年(嘉永5年) | 33歳 | 広村に稽古場(私塾)を開設する | |
1853年(嘉永6年) | 34歳 | 儀兵衛 | 三月 七代儀兵衛襲名 |
養父 保平 没する *六月 ペリー艦隊が浦賀に来航する |
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老中小笠原壹岐守を介し海外渡航を図る | |||
次女 みち 生まれる | |||
1854年(安政元年) | 35歳 | 安政大地震津波に「稲むらの火」を掲げ村民救済 *三月 日米和親条約締結 *十一月 南海地震津波 |
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大堤防築堤を決心、被災民のために全力を尽くす | |||
1855年(安政2年) | 36歳 | 正月 築堤の許可を得るため「内存奉申上口上」の書を藩へ送る | |
広村堤防築堤開始、津波被災民救済事業を継続する | |||
広村に浦組を組織し、若者を訓練する | |||
広橋を架けなおす | |||
稽古場を建て直す | |||
広村の民による「濱口大明神」建立計画を取りやめさせる | |||
江戸の持店が震災に遭う *十月 安政江戸地震 |
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1856年(安政3年) | 37歳 | 救済事業の功労により和歌山藩より独礼格を賜る | |
1858年(安政5年) | 39歳 | 江戸に関寛斎を送り、コレラ防疫にあたる *伊東玄朴らによりお玉が池に種痘館が創立される |
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広村堤防完成 *福沢諭吉が私塾(後の慶応義塾)を開く *江戸の種痘館火災 |
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1859年(安政6年) | 40歳 | 種痘館再興のために三百両を寄付 | |
勝海舟に咸臨丸同乗を誘われるが断念 | |||
1860年(万延元年) | 41歳 | *咸臨丸就航 勝海舟、福沢諭吉ら渡航 | |
1861年(文久元年) | 42歳 | 医学研究費用として西洋医学所に四百両を寄付 *十月 種痘館が西洋医学所と改称 |
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1863年(文久3年) | 44歳 | *天誅組の乱 | |
1864年(元治元年) | 45歳 | ヤマサが最上醤油の称号を得る | |
1866年(慶応2年) | 47歳 | 広村稽古場を耐久社と命名 | |
1867年(慶応3年) | 48歳 | *戊辰戦争 大政奉還 | |
1868年(明治元年) | 49歳 | 一月二十九日 抜擢され紀州藩勘定奉行となる *明治維新 勝海舟、江戸を戦火から守る |
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1869年(明治2年) | 50歳 | 一月 孔雀之間席並びに参政となる | |
二月 大広間席学習館知事となる *藩籍奉還 |
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松山棟庵とともに共立学舎設立に奔走する | |||
四月 藩主に随行して上京 | |||
八月 有田郡民政知局事となる 養老滋幼の御教令 |
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十月 名草郡民政知局事兼帯となる | |||
十一月 和歌山藩小参事となる | |||
1870年(明治3年) | 51歳 | 梧陵 | 養子梧荘を八代儀兵衛とし、これより梧陵を通称とする |
二月 松坂民政局長となる | |||
十二月 和歌山藩権大参事となる | |||
1871年(明治4年) | 52歳 | 五月 東京藩庁詰となる | |
七月 駅逓正となる *七月 廃藩置県 |
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八月 駅逓頭となる | |||
同月 和歌山県大参事となる | |||
十月 本官を辞し、権大参事の心得を以って事務取扱となる | |||
十一月 和歌山県参事となる。 | |||
1872年(明治5年) | 53歳 | 二月十三日 参事を辞職する *郵便、戸籍、学制、鉄道、太陽暦等新職制度が敷かれる |
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六月二日 息子 擔 生まれる | |||
1877年(明治10年) | 58歳 | *西南戦争 | |
1878年(明治11年) | 59歳 | 自修舎維持のために尽力する | |
1879年(明治12年) | 60歳 | 国会開設建言の惣代となる *自由民権・国会開設請願運動が全国で起こる |
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和歌山県初代県議会議長となる | |||
1881年(明治14年) | 62歳 | 銚子汽船株式会社を設立する *十月 国会開設の詔勅が下る *板垣退助が自由党を結成する |
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1882年(明治15年) | 63歳 | 十二月 木国同友会を組織する *大隈重信が立憲改進党を結成する |
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1884年(明治17年) | 65歳 | 五月三十日 横浜出帆 海外渡航に旅立ち米国に渡る | |
1885年(明治18年) | 66歳 | 米国ニューヨークにて客死 | |
福沢諭吉、勝海舟らが横浜で会葬を営む | |||
1892年(明治25年) | 耐久社が耐久学舎と改称される | ||
1893年(明治26年) | 広村に記念碑建立 | ||
1897年(明治30年) | 銚子に記念碑建立 | ||
1903年(明治36年) | 息子擔、英国留学中に行った講演会で、ステラ・ラ・ロレッツ嬢の質問によりラフカディオ・ハーン『生ける神』の主人公五兵衛の実子と判明、講演会で大喝采を浴びる | ||
1908年(明治41年) | 中学校令により、耐久学舎が私立耐久中学校と改称 | ||
1915年(大正4年) | 十一月十日 大正天皇即位の大礼にあたり、梧陵の多年の功労に対し従五位を贈られる | ||
1916年(大正5年) | 和歌山県議会四十二人が梧陵銅像の建立を計画 | ||
1920年(大正9年) | 四月十日 梧陵銅像建設除幕式 | ||
1938年(昭和13年) | 広村堤防、梧陵墓、国指定史跡となる | ||
1967年(昭和42年) | 耐久中学校庭に梧陵銅像を建立 |